NOVEL PAGE

クロテア・ドルトと雨の街


幻燈 篝



 ウェスタンノズルにさようなら、おはようの言葉は雨が好き。遠い景色の片隅に、硝子で歪んだ別れの手をぼんやりと少女は眺めた。煤煙にくすんだ手のひらは他の誰よりも汚れて見えるが、それでいて顔を綻ばせずにはいられない。日が昇り、落ちるまでの僅かな別れ。長い人生の中では短すぎる時間を毎朝のように惜しむのか、いつも彼はその手を振り続けた。 歪んだ硝子の中で排煙に見下ろされ、彼とよく似た群集は忙しなく流動し、西配管を貫く箱列車の中へと次々乗り込んでいく。早朝の窓越しに描かれる民衆の絵画を遠目に見やり、クロテアは毛布に両肘を沈めたまま、軽く握りこんだ両手で顔を揺らして溜息をつくのが常だった。雨粒は景色を更に歪めて、いつしか透明な水の満ちた世界を透明なキャンバスに描き出す。やがて箱列車が線路上を走り始め、群集の姿が西方広場から無くなる頃になると、結露に湿った窓を指先でなぞってこう書いた―― Car j'aime la pluie.西の果てへと向かう彼の姿は、文字の先にはもういない。


 白い毛布にくるまって、小口を開いて空を仰ぐ。さよならの素振りで拭われた窓の向こうに太陽を探して、雨粒が彼女の側に近寄るのをぼんやりと迎えた。窓にぶつかった雨は影を孕んだ透明な粒へと砕け、遠い真下の世界に落ちていく。黒い曇り空は、冷たく乾いた空気をダクトへと運んでいたようだった。上階の床板が軋み、くぐもり判別のつかぬ人間の声がいくつか聞こえると、クロテアは思い出したように毛布にまた潜る。飴色の長い髪は白い寝台にさらされたままで、毛布に包まれた彼女は横向きに寝転んで吐息をつく。何気なく手のひらで受け止めた鼓動の産物は少し暖かく、その温もりに彼女はある時間が唐突に過ぎ去っていたのだと気がついた。もうあの輝かしい生命の季節は、この石作りの都市にも等しく過ぎ去り、また長い旅へと出たのだろう。毛布の隙間から漂ってくる、林檎の香りが少女に確信を運んだように、確信は羽毛の布団を握り締めた。握り締めた羽はいつかの夜に似ていた。リネンの寝巻きに染み付いた独特の肌触りが、彼女を眠りから遠ざける。ああ、そろそろ起きなくては。


 怠惰が瞼から離れゆき、覗いた顔は気だるげに薫りの元を探す。首を回す必要の殆どない縦長の部屋に、その答えを見つけ出すのはさして難しいことではないのだが、クロテアを未だ寝台の上に留め置く朝の倦怠は手強いものだった。時計の針が少女を無視して進んでいった後に、やや覚醒した意識は食卓の上に置かれたティーセットを見出した。 昨晩には無かった、まだ熱を帯びたそれは暖かい林檎の蒸気を部屋にくゆらせているようだ。その横に置かれたティーカップも同様に、眠りの断食が齎した結果を少女に教えた。

ああ、そういえば、おなかがすいた……。

 魅惑の香りに引き寄せられ、寝台から脚を床板につければ、夏の欠片も無い冷ややかな感触がつまさきから届く。思わず目覚めたクロテアは、黙り込みながらも不意に跳ねた心臓を手のひらで沈めながら、はだしのまま食卓に脚を運んだ。孤独な食卓には、ノワルの温もりがはっきりと残っていた。マーガリンが染み込んだトースト、たぶん帰り道に買ってきたのであろうアスパラガスとラディッシュのサラダ、それと林檎の皮を加えたニルギリがティーポットを満たしている。ふたりで拾って運んだ丸いウォールナットの古びたテーブルに、ささやかながらも満ちたりた食事が用意されていた。

(別に用意してくれなくてもいいのに)

 丸い机の半分を占めた、走り書きや区画と製図の記された紙の一枚を何気なく取ると、クロテアにはとても理解の及ばない専門的な用語に満ちた彼の文章が目に映る。……つるはしとニトロだけじゃあ勤まらない仕事なのは、十分承知のことだからこれでいい。長い髪を指で巻き取りながら、彼女は一人心中で言い訳をする。分からなくてもいいのだ。この広い世界の中で人間が理解しうる事柄なんて、きっとそんなに多くは無いのだから。何故なら私はこの空から雨粒がどうして降ってくるのかを今ですら知らない。どこからこの雨雲は生まれて、どのようにこんな西住宅街の上までやってきて、どうして毎朝雨を降らせているのかなんて、知りようがないことなのだ。

きっと、そうしておく方が幸せなのだと思うから。クロテア・ドルトは冷めてしまったトーストを食みながら、音も無く降る雨に頷いた。銀のフォークでラディッシュに八つ当たり。

(一人で食べる食事ほど味気ないものは無いわ)

 そうしてサラダを食べてしまえば、後は紅茶をゆっくりと楽しむ計画を立てるのみだ。夜が訪れるまで、ゆっくりと時間をかけて、有意義な時間をデザートに楽しむアップルティー。何故なら少女は紅茶の入れ方すらも分からない。食後に上品を物語る仕草で、一口紅茶を啜れば、紅茶以外の大好きな香りが感じられる。雨粒が勢いを増した頃になると、ダクトの空洞に、肺が気体を吐き出す重い音が何度か響いた。

*****

 ウェスタンノズルにこんにちは、お昼の言葉は本が好き。リルケの言葉が花咲いて、ゲーテの言葉に夢を見る。箱列車から降りてくる、汚れきった黒い群集の中に、彼を探すことばかりを夢見て優雅な言葉は読まれないまま。膝の上に置かれた本に片手を乗せながら、窓際の寝台で彼女は窓の向こうを探し続ける。そんないつもの昼下がり、曇った硝子を右手で拭くのも、今や慣れきった職人の技だ。

(列車から降りてくる人々の顔は大きく二種類に分けられているわ。明日が嫌いな人と、明日が好きな人ね)

 蒸気を吹き上げて、配管型のトンネルに列車が流れ込んでいくと、西方広場は暗い夜を越えた群集に満ちる。くたびれきった紳士帽、煤と土埃に汚れた黒い外套、稼ぎと仕事道具を詰め込み背負われた皮袋、それと細い顔立ちを探して。僅かばかりの期待に動く蒼い瞳は、似た者ばかりを見つけるのみで、今日もやはり役立たない。凛々しい顔をした似た者達は、密集する住宅街の路地を器用に縫ってそれぞれの想い人のいる我が家へと帰っていく。それが道理で、それが今日の意味なのだ。そればかりは、誰よりも多分知っている。
時折人の顔を見分けるのに飽きて、分厚い書物を両膝の上で開いたり閉じたりして遊ぶ。こうしていると、言葉と言葉が交じり合って新しい言葉が生まれるかもしれないと、少しわくわくしてしまう。それにも飽きると脚を無意味にばたつかせ、ベッドの上で転がって、淑女らしく時間を潰すのがクロテア・ドルトの嗜みだ。あとは手狭な部屋の掃除をしっかりと済ませて、心地よい空間へと変える。紅茶を少しずつ飲みながら、街角でノワルが摘んできた小さな花を押し花にしてみたり、純粋な気持ちに筆を走らせてみたり……。そうしてそれにも飽きた頃には、寂しさに曇り空を見上げるしかもう、無い。

――いつからこの街で雨は止まなくなったのだろう?

 遠い島から夢を見て、弱さと希望に手を繋ぎ辿り着いた狭く広すぎる石の街。余りにも人に満ちて、余りにも誇大な夢に満たされた石の街。電気蜘蛛の巣に取り巻かれ、洗濯物に色彩を委ねたこの街がいつから雨に愛されたかなんて事は、遠い世界に生まれた自分達には知り得ぬ過去だ。ベッドの上で無意識に伸ばされた手足が、一体どのように自分の意思に従ったのかも分からないように、雨がどうして降るのかなんて分からない。
 ……Car j'aime la pluie.寝転んだまま窓に記す言葉も、少女にとって同じようなものだった。

(……それでも私は雨が好き)

 空腹に小さく痛む感覚も、だらりと横たわらせた身の倦怠も、吐息を荒く吐き出す肺のほの暖かい冷たさも意識の片隅へと遠のかせ、黒塗りの幻想が描いた世界に優しく響く音色。意識のみなもにまどかを描く雨粒の旋律、瞼を閉じても肉体と心を繋ぎとめる冷たい空気、雨に混じり融けた季節の香り……。

(ああ、届くのはやっぱり、秋の匂いだ)

 おぼろげな意識に遠い秋を指で描く。暗闇を形無く、絵筆としてなぞる指先は懐かしい秋の世界を彼女に彩って見せた。枯れ草が風に靡くあの丘、ノワルが笑った林檎畑の小さな木陰、クロテアと初めて呼ばれた牛飼い小屋脇にある麦藁の山、ノワルを初めて側に感じた星の夜……。彼女以外と彼以外にはこの街では意味が無い、遠い島で確かにあった、もう手が届かない秋の記憶。さりげなく薔薇が咲いていた名も無き道、斜陽の差し込む離れの小屋、初めて乗った船で感じた潮風……その全てに満たされていただけでも構わなかったのに、どうして神様はそんなささやかな時間すらも十分にお与えにならなかったのだろう。

(今のままでも、十分な気もするけれど)

 段々と薄れ行く白昼の意識に、クロテア・ドルトは欲張った。リネンの寝巻きに包まれた細身は毛布を引き寄せて、ベッドの端からずれ落ちた詩集は夢の外へとさようなら、そうして眠りにつく直前に少女は掠れた声を出す。

「……せめてもう少し、同じ時間が欲しいと思うのよ」

 まどろみに落ちる意識は何処へやら、鮮烈な記憶は雨のしたたりよりも多く彼女の脳裏を駆け巡り、理由も無く混沌に溶け合い、彼女を夢に落とした。林檎の香りに包まれて、郷愁の世界へ、長い睫毛を動かすこともなく旅に出る……。

窓の外に広がる世界は、少女が眠りについても変わらない。身を寄せ合って高さを増し続ける住宅塔の群れ、煙突から伸びる生活の対価、かかる獲物もいない電気蜘蛛の巣、雨雲に暗む街並みを仄かに照らす電球の明かり達。変わらない街に落ちゆく雨はまた勢いを増し、ダクトから漏れ続ける咳の音を掻き消した。夢の遠くでは、幾つもの雷が落ちる音が木霊していたのにも気がつかぬまま、クロテアはただ貪欲に夢を見る。

***

 ウェスタンノズルにこんばんは、いつもと同じ夜が来た。時計の針が一日に与えられた半分の職務を終える頃、窓の向こうはどの時間よりも輝いて見える。雨雲に隠れていても、一応太陽は働いているらしい。姿も見えないノワルがそうであるように、クロテアの意識が捉え得る範疇の外で確かに存在し、意味を為しているらしい。日が沈む時間を過ぎた雨の街は、昼間と比べ遥かに暗く、住宅塔の随所で煌めく電球は暖色の光で夜を美しく彩った。幻灯を着飾った夜に抱かれて、箱列車は人をまた大量に吐き出していく。
 暗い西方広場には、住宅塔の様々な部屋から光を与えられて、所々が昼間以上に明らんで見えるのだ。窓を指先で少し持ち上げれば、帰り着いた恋人の名を呼ぶ若い女の声が様々な所からクロテアの耳へと届く。おかえりと、知らない男の名前が満ちた夜こそが、この街で最も賑やかで人間めいた時間なのだろう。乗り出した身を雨に濡らしながらも、恋人は想い人の名を呼び続け、遠くの男達はそれに答えて泥と汗に汚れたハンカチを振っている。心なしか、その声は平生よりか多い気がする。冷め切った最後の紅茶を啜りながら、窓際で少女は自分だけの笑顔を探した。

(でも今日で、ジョゼとルートドラッガはもう名前を呼ばれなくなった)

 耳に慣れた筈の嬌声は今夜から消えて、嫌でも覚えてしまった、知らない男の名は昨日に取り残されてしまったらしい。しかし、愛が薄れたわけではないのだろう。

(多分、疲れてしまったのでしょうね)

 窓際で頬杖をついて、彼の顔を探す少女はこの街のどこかで生きているであろう女達の一日を漠然と想像した。昼は働きに出ているのか、それとも空腹をひとかけらのパンとチーズでごまかしながら、自分と似たような時間の消費を試みているのか。さして興味は無い問題が脳裏を駆け巡る最中、少女の瞳は忙しなく群集の顔を選別する。アップルティーは気がつかない間に飲み干してしまった。
 細くやや痩せこけてしまった顔、男らしくない白い肌、灰にくすんだ短い金髪、つぎはぎだらけの外套と紳士帽、それらの条件全てを満たす男は、未だに見つからない。普段ならば誰よりも早く見つけて安心している筈の、屈託無く笑う情けない表情をしたノワルが、彼女の視界には存在しなかった。たまに、よく似た背格好の男が彼女の視界に留まるが、雨粒と共にすぐ消えていく。見つけたいのはよく似た誰かではないというのに、瞳は意識に反して頻繁に認識を間違える。やがて、随分と持ち上げていなかった窓を何とか細腕で持ち上げた彼女は、長い時間叫ばなかった彼の名を呼んだ。けれども、弱い声は簡単に雨の音へと掻き消えていくばかりで、次第に群集の塊が減ってゆくにも関わらず、誰の耳にも届くことは無かった。代わりに、久しく外気から吸い込んでしまった煤煙は彼女の声を止め、喉から溢れ返る熱い液体は粘り粘りと苦しみを混ぜながら、両手の隙間から白いベッドに鮮やかなダリアを描きだす。

(……いつもとは違う夜が来た)

 夜光に照らされた西方広場は、やがて下地の石畳のみの空間へと変わり、西配管へと帰る箱列車は完全に空となって、西の果てへと消えた。太陽が沈んだ気がした。ノワルが、帰ってこない。もう長い間、当たり前のように汚れた群集の中に溶け込んでいた彼の姿がこの雨の街に無い。喉が焼けるように熱い、久々に薬瓶の蓋を開けたこんな夜にも、当たり前のように雨は降っている。胸を締め付ける、茫漠な、抱いてはいけない直感が彼女に唇を噛み締めさせた。開いた瞳孔に映る街は果てしなく暗く、雨は夜の底へと落ちていく。
空になったティーカップを窓際に置けば、思い出の音が小部屋に響いた。

(……今日は、きっと外せない用事が出来たのでしょう、ノワルは仕事が出来る人だから。……少し眠っていれば、きっとまたいつも通りに)

 橙や赤の光が燈る窓に、彼女は朝と同じ言葉を指先で描いた。―― Car j'aime la pluie.
リネンの寝巻きの内側で、震えてばかりの痩せこけた身は片割れを求め続けている。まだ暖かい温もりを纏ったベッドに身を横たえ、少し高くした枕に感情を預ければ、瞳に映る雨の街が懐かしく思えた。
 初めてこの街に来た夜は、素晴らしく美しかった。全てが希望の滴を纏い輝き、明日への願いを燭光に託して、この世で一番欲しいものを全身に感じながらクロテアは眠ったものだ。
降りしきる雨は全てを洗い流してくれるようで、晴れない空が過去とその時を分かつ。ならばせめて、あの時と同じように眠って待とう。

 少女の願いは秋雨と光に溢れた夜景に小さく浮かんだ。やがて、まどろみが彼女をさらい始めると天井越しに、普段のものより感情的な『お帰りなさい』が意識に浮かんで、クロテアを妬ませた。顔も知らない誰かへの嫉妬に、彼女はまどろみを好意的に迎え入れようとした。長い髪を指で巻く癖も控え、弾む上体も意識の外へ、生ぬるい感覚も目を瞑り認めない。知らなければよい、分からなくてもいいのだ。この広い世界の中で人間が理解しうる事柄なんて、きっとそんなに多くは無いのだから。ただ、この街では雨が降り続けている。そんな当たり前さえあれば、それでいいはずなのだから。毛布に包まった彼女は、窓に背を向けて玄関の扉のみをしばらく見つめつづけた後に、いつもと同じ時間に目を閉じた。蝋燭が溶けきれば、薄暗い部屋は暗闇へと変わり果てるだろう。ただ、水滴に屈折する灯火のみがクロテア・ドルトの部屋をかすかに照らす。ダクトに響く乾いた音は、やがて夜の果てを朝陽に結んだ。

 ――ウェスタンノズルにおかえりなさい、求める言葉はささやかなひとこと。
その翌日も、この街には雨が降り続け、同じような誰かの一日が繰り返されていたらしい。


(終)