朝凪のシベリア

幻燈 かがり


 溜め息も無しに、窓辺の日陰に背を凭れる仕草がローザネラなりの合図だった。格子窓から入り込む銀色の陽光を長いスカートの上に落としたままに、頬杖をつき、不遜に本棚の隅を見て微笑む。微笑みの中でしかめられた眉の意味は、他の誰にも悟られることもなく、ラーレはただ聖典と口を閉じた。褐色の肌をした少女が音読を止めると、側にいた従者は「おや、本当に、今日分の章句はここまでですか?」と訝しげに尋ねた。老獪な顔に刻まれた皺が、眉間の辺りで懐疑に影を落としているのを見受けながらも、ラーレは力なく笑い頷く。 「今日も素晴らしい聖典の章句をこの耳に聞けた幸福に、感謝いたしますわ。ビゴット、紅茶と菓子を用意しなさいな。長い章句を読み終えたラーレの喉を、潤してあげなくては」  小さく拍手をして満面の笑みを浮かべたローザネラ嬢は、老年の従者に指で指図すれば、背凭れへとより深く沈んだ。顔の前で広げられた扇子に隠れた口は、多分辟易で八重歯を覗かせているのだろう。直立したまま聖典を抱える褐色の少女はそんな事を考えながら、不満そうに部屋を去るビゴットの背にお辞儀をした。老いた従者が部屋を去ると、静寂がローザネラの部屋に訪れた。先ほどまで、美しい読誦が満ち溢れていた空間には、今は何ひとつ意味ある音も生まれない。あるのはただ、自然の息づく微かな音のみで、そこで互いの顔を見つめるローザネラとラーレの間にも、まだ言葉は生まれる由も無かった。そんな沈黙を打ち破るのも、やはり退屈のせいなのだろうか?  孔雀が羽根を広げるのに似た激しい音を立てながら、ローザネラ嬢は扇子を閉じる。 (ああ、やっぱり今日も不機嫌そうな顔をしている)  黒い長髪が良く似合う白肌の貴族は、ラーレが何処を見ているのか気がついたようで、口を閉じた。影の中にある少女の顔に、色は良く見えない。格子窓の向こうをそれとなく見やり、自分から眼を逸らすローザネラの分かりやすい仕草に、ラーレは長い袖元を自身の口の側に運び、くすりと笑った。 「一週間前と同じやり口ですね」 「……仕方ないでしょう、こうでもしないと出て行かないんですもの、あの『忠実な』執事は」 「じゃあ、この後も同じ風に?」 「さあね……、その場で考えるとするわ。毎日繰り返すのも、面倒だもの」  窓の外に広がった青空を眺めるローザネラが溜め息をつく頃には、ラーレは彼女の側に寄り添い、色の違う手を握っていた。 「でもこれで、ようやく、ふたりきりですね」  白い手のひらがぴくりと動くのも、眼を合わせようとしない彼女なりの肯定も、いつもと同じだ。――窓の向こうに広がる景色は、春と夏の狭間で、石造りに喜ばしい輝きの七色を散りばめながら、多くの人の賑わいを遥か彼方に孕み、流転を忘れていた。仰向いた白い少女の唇と、俯いた褐色の少女の唇は重なって、逆光が深紅のペルシア絨毯に、恋人の影絵を描き出す。……くちづけの際、窓際にはいつも同じ花の香りがした。丸く可愛らしい緑の葉と茎を持つ、白無垢に咲き誇る一輪の花の香りは、ローザネラのそれに似ていた。異邦の香り、自分がこれまでとは別の世界にいるのだとおぼろげに感じさせる甘い花の香りに溺れながら、桃色の唇を食む。そんな一瞬の繋がりが、ラーレには余りにも憎らしく思えた。瞼を閉じたまま、繋いだ手が反射的に跳ねれば、白い首筋に一筋の汗が流れているのが視界の隅に留まる。何処かで風が靡く音がした。桃色に染まり始める頬を空いた手のひらでなぞれば、気難しい令嬢の身は情けなく震えていく。膝と膝とを擦りあい、くすぐられるのを我慢するかのような仕草で、誉れ高き生まれの貴女は、卑しい私を求めているのでしょうか。そうした仕草に気がつくと、褐色の少女は身を引き離す。唇が離れるや否や、強気に見えてしまう瞳で彼女を一瞥し、真っ赤な顔を隠すローザネラの隣で、硝子窓に土色を帯びた手のひらを重ねる。硝子窓には黒き砂漠の衣服と、僅かに晒された異邦の肌、白い長髪が透明な空を帯びて、映し出されている。……同じ色と言えば、この髪と、この瞳くらいしか持たない。港の彼方に浮かぶ一隻のダウ船は、波に揺られていた。 「……ねえ、本当に喉が渇いてしまいましたね」 「……そうですわね」 「紅茶を頂いたら、また私の読誦を、聞いていただけますか?」 「……少しだけなら、いいですけれど」  まるで拍子を見計らったかのように「お茶をお持ちいたしました、御嬢様」と老年のビゴットが恭しく扉を開き現れた。額に手を当てながら礼を呟くローザネラの側で、聖典を抱えるラーレは、ただ微笑んでいる。  白い陽だまりの中で紅茶は湯気を立てて薫り、甘い菓子を嗜む想い人と、困ったおまけとに見守られながら、異邦の少女は故郷の聖典を歌うように読んだ。午後の邸宅から望む洋風の街並みには少し似合わない、砂漠の歌声が部屋を飾る。その詩句は、もはや神のために為された語句の意味を失い、ただひとりの為の歌に変わっていた。それは約束のための章句であり、また停滞のための語句の連なりであり、そして明日を願うためだけの祈りに、等しくなってしまっていた。 ***  豪奢な邸宅を囲う塀の向こうを越えた市場の先には、どれだけ多くの異彩な家屋が連なっているのかを、ローザネラ嬢は知識としてしか知らない。窓越しに見える全てが、大道に沿い立ち並ぶ家の全てが、馬車から望む景色にある全てが、彼女以外の人間が生きる場なのだと信じているのであろうが、実際には世界はそれ以上にもっと大きく、深く広いものだ。色とりどりの果物や香辛料、新鮮な魚介類や肉類に野菜、花束から装飾品まで取り揃えた活気溢れる市場のそこかしこには、そんな見慣れない世界へと繋がる抜け道がいくつもある。例えば、家屋と家屋の隙間を縫った裏路地には、ネズミの巣穴のような家がいくつもあり、そこで家族らが愛のある生活を立派に営んでいるものだ。建物から建物にかけ渡された紐には洗濯物が吊るされ、窓辺や道端には誰かの植えた花が咲く。そんな道のひとつを抜けた先には、洋風とは趣を全く異にする石造りとモザイクタイルが特徴的な隊商宿が立ち並んでおり、家族がラーレの帰りを待っている。警備兵が絶えず上げる狼煙の下で、『砂漠の旅人』と呼ばれる民の殆どは生活を共にしている。カイサーリヤと呼ばれた二階建ての家屋らは、同じ広い中庭を面して、軒を並べていた。  中庭にラーレが足を踏み入れると、巡回を休憩する兵士と、ターバンやローブを着た子供らが「おかえりなさい読誦者(カーリー)様」と屈託の無い笑顔で彼女を迎えた。そうして言葉を返した後に、彼らが語るささやかな一日の出来事は、ラーレの生きる意味のひとつだ。……今日は兵士の彼が、子供たちと追いかけっこをした後に、算数を教えてくれていたらしい。それからみんなで木登りをして、市場を見学して、疲れきった昼過ぎに皆で食べた林檎が、とても美味しかったという。石段に座り込み、分け与えた屋敷からの手土産を食べる彼らが話す一日は、往々にして変哲もなく平穏で、懐かしさと真新しさに満ちていた。  喜びは誰かと分かち合うものだ。両手から溢れる富は貧しき誰かに分け与えるものだ。唯一無二の神を信じ、決められた時刻に祈りを捧げ、来世へと向かう一瞬の人生を感謝するものだ。食を断ち、飢えを知ることで、今を生きられる意味を悟るものだ。天から与えられた祈りを、名も知らない誰かに歌い続け、新しい明日を与えるものだ。五つの善行と、六つの信仰を寄る辺にして生きる私達の世界。生活と生活が頻繁に混じりあい、時に助け合い、変わり続ける風景の中で生きる世界がある。  そんな世界があるのだと話したところで、それは血筋と肌が違うから想像もつかないし理解も及ばない、と令嬢は言うだろう。……理由は聞くまでもないかもしれないことだが、ローザネラ嬢は悲しくも、砂漠の旅人を嫌悪していた。この異文化と異文化とが混じりあう街に生まれながらも、狭い屋敷の中だけで育ったらしい彼女の価値観は大概、ラーレには共感が及ばない。『――ただ、貴女だけは特別なのよ』と手渡されるパンや肉が、そうした人々の口に運ばれているのだとすれば、美しい彼女はどんな顔をするだろうか。……そんな顔も、少し見てみたい気がする。暮れなずむ夕陽と、高台の洋館を眺めながら、ラーレはそれとなく考えた。  あの屋敷を訪れるようになってからというものの、日常の些事はもつれる感情の種と化している。手元に残った最低限の食事を厳かに咀嚼する家族と同胞と食事を共にする中、ラーレはローザネラ嬢から渡されたパンの断片を見つめながら、聖典を抱きしめていた。 「……読誦者(カーリー)様、聖典を読誦していただいてもよろしいでしょうか」  眠る赤子を抱く、黒服に身を包んだ女性がすがるような眼で彼女に頼んだ。その言葉に周囲を見渡せば、座した同胞全員の瞳が同じ願いを秘めてラーレを見つめているのに、ようやく気がついた。 「ええ、勿論です」 ……同じ信仰を掲げる者にとって、この書物は神に等しく、神の言葉を読み上げる少女もまた、敬意の対象である。綴られた言葉は物語性を強く持たず、語りかけられる信仰者たちそれぞれの内面に意味を問いかけるものだ。彼らにとっては神が一個の人間に語りかけるのと等しい、学問と芸術の教義を兼ねた章句を読み上げていく神聖な行為には、数多くの修練と、生まれながらの美しい声が要求される。若くしてその才を見込まれたラーレは、明日に不安を抱えた人々のために、書物の一説を読み上げていく。食事を止め、一様に祈りを捧げる同胞達に囲まれて、ただひとり空色の眼を開く少女は書物を捲った。 『……天が裂ける時、 数多の星が飛び散る時、 海洋が溢れ出る時、 数多の墓が掘り起こされる時、 魂は既に為せること、あとに為せることを知る……』  ……こうして聖典を読み上げる中でも、心はローザネラに揺らいでしまう。幸いにも、読み上げる声は感情を完全に隠している。けれども、こうした心境のままで、どれだけ偽りの祈りを詠えることだろう? 薄青い夜の中に消えていく言葉の連なりが、目の前で祈る人々のためでないと感じながらも、それを改めようとしない。聖典の言葉に、『黒』や『白』、或いは『女』といった語句が見受けられると、彼女との午後を思い返して、それに浸ってしまう。身を赤い熱を帯びた鎖に蝕まれていく気分だった、清廉なる祈りは手段へと変わり、彼らのための明日は私のための明日へと、変わる。 ( ――この夜がもう少し青ければ、ひとときでも彼女を忘れられたかもしれない。星の無い夜は、嫌いだ)  毛先が僅かに丸まった黒く長い髪が好き。ゆったりとした黒のドレスに身を包んだ、透き通る白い肌が羨ましい。肌に歯を立てれば、恥じらいを染めてくれる桃色の血が好き。気難しい瞳で睨むようにこちらを眺めながらも、内面では自分を欲しがってばかりの浅はかで、わがままな彼女が愛おしい。そして、私だけに見せる表情が、何よりも私を狂わせている……。聖典の章句は現世についてのものであったが、その中身はラーレの中には浮かんでいない。ただ心でたゆたうのは、遠い屋敷で夜を過ごしているであろうローザネラの思い出のみ。思い返すこれまでの時間に疼きを覚えれば、ラーレは聖典を音も無く閉じていた。祈りの仕草で閉ざされた書物に、祈りを捧げていた同胞らは、最後に唯一神の存在を確かめるべく異口同音で声をあげた。 (私にとっての神は、他にいるのかもしれません) ……同じ証明の言葉を口にする褐色の少女は、そんな背徳を心の中で呟いた。 ***  すべからく夜が嫌いだった。あの美しい声が聞こえなくなった部屋で独りきり、残された食べかけのお菓子を口にしてみても、味気ない。炎が点々と煌く夜の街の何処で、ラーレは同じ時間を過ごしているのだろうか。月明かりの中で浮かぶ街を見下ろせども、彼女の姿が見つかるわけもない。あの、砂漠の旅人では一際稀有な白い髪が夜に靡けば、必ずや自分は気がつくはずなのに。彼女が何処に住んでいるのかも、どのように暮らしているのかも、何処から来たのかも定かには知らないローザネラには、夜の訪れが虜囚への罰の如く思えた。この暗い夜の中で独り寂しく唇に指をあてて、求められた時間を思い返す。独りよがりで、身勝手な自分を弄ぶかのようなラーレの微笑みが、瞼の裏側で浮かんだ。  出会いのときにも、思えば彼女はあの微笑を浮かべていた。表情は笑っているが、何を考えているのかが分からない。それは異邦の民だからといった肌の違いによる先入観でもなく、同じ肌の色をしていたとしても窺い知ることが難しいであろう、あの聖典とやらに良く似た微笑みだった。砂漠の民は神秘主義といった観念を掲げるというが、そうした民衆の思い描く理想が、彼女の風貌にはあるのではないかしら? と初対面から不思議と感じる由縁が、その微笑みと外見にあったのだと思う。  市場の片隅で、砂漠の旅人らの祈りに囲まれて、祈りを歌う少女の姿はこれまで目にした如何なる絵画よりも美しく、それまで耳に親しんだ音楽の何よりも麗しく、ローザネラの心に焼きついた。普段ならば、「あら、汚らわしい」の一言で片付けたくなる街の一角が、ラーレの存在により特別な意味を持つ場所へと変わるようで、ローザネラの背筋には一筋の戦慄が走り抜けた。異教の民が、異邦の旅人が、ラクダと幌馬車を引き連れた商人の娘の一人が、これほどまでに誉れ高い生まれの自分の心を強く揺さぶっている感覚に、酷く、狼狽した。そして矜持を棄ててまで、融ける鉄のような想いを煩った。  ――真っ直ぐで絹よりも手触りの良い、長く白い髪が好き。黒白の衣に包まれた、太陽の匂いがする褐色の肌が好き。微笑みに私を映す、同じ色の瞳が好き。誰よりも美しく、誇り高く聖典を読み上げる澄んだ声が好き。少し意地悪で、それでいて優しい、何を考えているのかさっぱり分からない微笑みが好き。自分と同じ位の背丈でありながら、とても華奢で平坦で、知らない世界を沢山詰め込んだ貴女の肉体と、その内側にある全てが好き。  恋を窓辺に歌えども、聞き手は白い花以外に在りはしない。飾り立てられた部屋にある金の額縁に飾られた絵画も、純銀の燭台も、白い寝床も、誰かの人生が織り込まれた絨毯も、未知を語る書物らも、籠に残る菓子も、彼女を満たしはしなかった。寝床になげうった身体は、無意識に煩悶とし、虚しく疼く。……こういった夜の時間に限って、邪魔者のビゴットは絶対に現れない。眠れぬ夜に寝返りを何度も打つ彼女は、ふと名案を思いついた。 *** 「ねえラーレ、今晩は私の部屋に泊まりなさいよ。夜の街を眺めながら、貴女の読誦を聞いてみたいなと思って。ビゴットにばれないよう、こっそり隠れて、ね?」  (……随分とまあ、積極的で、端的であり、なんて直情的なのかしら) と、ラーレは困った笑みを浮かべた。ここにあの老年の従者がいたら、どんな騒ぎになっていたことだろう。他愛も無い、されども待ち望んでいた接吻の後に、余所を向いたローザネラは呟いて誘った。聖典を窓辺に置きながら、褐色の少女は青空を仰いで考える。……読み手の自分がいないカイサーリヤの夜は、どんな混乱に包まれるだろうか? 一日に欠かせない祈りは、異教徒の彼女を前にして唱えられるものだろうか? もしビゴット氏に見つかったら、自分とローザネラの関係はどうなるのだろうか? 彼女は夜に、自分と同じことを望んでいるのだろうか? ……そして、連綿と生まれ行く不安の中で、一際強く彼女を渋らせるものがある。 (……ローザネラと、これ以上親密になって良いのでしょうか)  もしどちらかが違う性だったのなら、答えは簡単に導けただろう。ラーレの属する宗教では、姦淫は大罪である。それも神聖を詠う読誦者である自分が、婚姻を結ぶ前に異邦の人間と関係を結んだとなれば、死罪は絶対に免れない。何よりも、男は苦手だった。人として好きになることは容易くとも、愛することは難しい。けれども、自分がつい先程までローザネラの唇を奪っていたように、同性を恋い慕うことが、十字架と唯一神の交わるこの地においても異端とされているのは嫌でも理解している。こちらの聖書ではゴモラというらしいが、やはり忌むべき志向であり、ローザネラ自身はどうなのか不明瞭であるが、表立って人に打ち明けられるものではないのだろう。……何よりも、これ以上同じ時を過ごしてしまえば、二度と離れられなくなってしまう予感がしていた。――それなのに。 「……ローザネラが構わないなら、喜んでそうします」  唇は自然と紡いでいた。記憶しきった章句を読み上げるように、込めるべきあらゆる感情を含んで、決められていたかのように。 それからの時間はラーレにとって白昼夢の如き、ぼやけた印象だった。気がつけば、紺碧の夜が深まるのに合わせて、肉体は想い人を求めていた。白い毛布の中で、肌が擦れあう幽かな音がする。無意識に、互いの名前を呼んでいる。舌先に、指先に、瞳に、鼻先に、頬に、耳に、首筋に、花弁に、心臓に、いくつもの知らなかった彼女が与えられた。……聖典を読み上げない夜は初めてだった。ラーレにとって、重なり合う肉体の熱さも、胸越しに伝わる心臓の音も、吐息の蕩けるような刺激も、握られた手の温もりも、祈りを遥かに超えて、甘く麗しいものだった。黒い髪の令嬢は、違う色の肌が、白い自分の肌の中へと融けていくような錯覚を覚えた。暗がりに同じ色の瞳で見つめあい、音を殺して、異邦の少女の名を呼び返す。寂しさに埋まる夜が、今はただ心地よい。薄布に包まれ、肌と肌とが触れ合う恍惚。終わらないで欲しいと願える夜は、初めてだった。蜜を味わい、月影に身を逸らし、痙攣する手は毛布を強く握り、充足に震える夜は深まる。やがて街の灯火が殆ど消えた頃になると、ローザネラの部屋で一本の蝋燭が燈された。 「……ずっと言えなかったけれど、私、貴女が好きだわ」  ベッドの脇で揺らぐ小さな炎をぼんやりと見つめながら、ラーレの両腕に抱かれるローザネラは恥じらいに指を咥えた。銀の燭台には毛布を被り、身を抱かれた自分たちの姿がまざまざと反射している。身の余韻がまた熱を帯びて、爪先から込み上げる思いだ。その言葉を耳にして、異邦の少女は眉を下げた。返したい言の葉を飲み込んで、代わりに腕の力を強めながら、黒く柔らかい髪に顔を摺り寄せ、銀に浮かぶ表情を隠した。 「……なにか答えてくれないの?」  慣れ親しんだ筈の沈黙が珍しく、ローザネラを駆り立てた。普段の彼女にある、あの意地悪めいた沈黙とは異なる直感が、すべすべとした手のひらに滲む汗から生まれたのだ。身体にかかる白い髪が、呼吸で僅かに動いている。背中でラーレは何を想い、言葉を返さず、ただ自分を抱きしめているのだろう。強気な瞳が、感傷に丸さを帯びていく。何か言葉を聞かないままには、涙が溢れてしまいそうだった。 「……ねえ、私のローザネラ。あの窓辺の花は、なんていうのですか?」 耳元での囁きは、夜を掻き消してしまいそうなほどに優しく、穏やかなものだった。水平面で赤らみだした空の隙間から吹く朝凪が、その白い花を揺らしている。ひとくちに答えてしまえば、そのままラーレがいなくなってしまうのではないだろうか。虚空に消える聖典の章句と同じく、美しい律音が目に見えず消えていくのと同じく、異邦の少女は、気がつかぬ間に自分の側を離れてしまうのではないだろうか。まだ彼女の味が残る唇で、音を産めずにいたローザネラは、胸に重ねられた彼女の手のひらをきつく握り締めながら、怯えて返事をした。 「……あの花は、シベリアというの。旅人の手によって、遠い空の先にある東洋の地から持ち込まれたという、純潔の花よ」 「そう……、綺麗な名前ですね」  窓辺の風を浴びる白い花の香りが、ふたりの身体に届く。夜明けが近いのだろう、徐々に赤に染まり行く水平線に向かって、白い帆を広げ、燦然と溢れ出す陽光を浴びたダウ船が、港を出ようとしていた。朝と夜の混じる空で鳴く海鳥が、羽ばたきの輪郭を影として浮かべている。 「ずっと言えなかったのですが……私はもうすぐ……この地を離れなければなりません。だから、私の伝えたい言葉は、届けられません。 今は、こんなにも近いから。想いを歌えば、遠のいてしまう時が、迎えられなくなってしまいます」  ラーレの告白に、ローザネラは彼女の生まれを思い返し、はっとした。隊商を組み、各地の交易品を荷馬車に詰め込みながら、果て無き道を往く砂漠の旅人。絶え間なく世界を流れ続ける風のように、明日への当ても無く、ただ神への祈りを寄る辺に旅をする民族の、大切な読み手。一介の子供ならばまだしも、同じ神を信仰する人間からあれほどまでに崇められる存在の彼女が、この港町に留まるなんて、当初から確証の無い話だった。こうして屋敷に招き続けていても、彼女は黙って同胞と町を去り往く運命にあるのだろう。 「なら、残される私は明日に何を祈ればいいの?」  震える声と共に生まれた一筋の涙が、ラーレの手のひらに伝わっていく。徐々に冷たさを帯びていく雫が、より深く読み手の少女の心を抉る。窓際で白花と並べられた聖典と、白磁の背を見比べて、握り返す手のひらに染みる接触の実感が、沈黙を強いた。黙したままに消えてしまえれば、どれだけ楽だったろう。一切の思い出もなく、この洋館を思い返すこともなく、今までと変わらず新しいものだけを迎えていけたのなら、どれだけ楽だったろう? 過ごした時間で言えば、ふたつの満ち欠けにも満たない。そんな僅かな滞在が、これほどまでに大きく、自分の人生に差し掛かってくるなんて、教えられたこともなかった。凪にそよぐシベリアの花びらが、朝露のひとしずくを聖典に落とすと、読み手の少女は声を飾らずに上げた。 「私も貴女のいない明日に、どんな祈りを歌えばいいのでしょう?」  決まりきった章句が与えられているはずも無い、ラーレだけの祈りは歌になれない。形に戸惑うこの心が、嘘で作り変えられたのなら、この夜を迎える必要もなかった。絢爛な装飾に飾られた異邦の聖典に、白百合の朝露は染みて消えていく。ほんの少し強さを増した抱擁に、ローザネラは初めて、読み手でないラーレを感じられた気がした。それ以上生まれない声が、夜明けの静寂に満ちた冷たい空気が、ローザネラに彼女の体温を伝えた。星屑を残した睫毛の奥で、黒髪の令嬢は思案する。 (……私は余りにも、無知だったのかもしれない) レースのカーテン越しに届き始めた朝日の羽根が、閉ざされた瞼の裏に虹彩の円を描いた。そうして、眼を閉じたままにも感じられる花の香りと異邦の恋人の存在に、夢見がちな決断を、下した。 「……そう。それなら、分かったわ」  小鳥のさえずりが人気の無い市場の空に朝の訪れを告げ始める。月は夜と共に沈み、石造りの町に、新たな太陽が浮かんだ。身を起して、向かい合い繋がった優しい感触と逆光が描く影絵だけは、あの落日と変わらなかった。 ***  まだ石畳の敷かれていない、砂漠の面影に溢れた町は雲ひとつ無い青空に見下ろされていた。行きかう人々の合間を縫って、紙袋からパンや極彩色の果物らを覗かせて、黒いローブを纏った少女は駆け抜ける。後ろ手に褐色の手を引いて。背の向こうで小さくなっていく幌馬車の中から、泣き喚くような老人の呼び声がする。ターバンを巻いた商人とラクダの隊列に隠れながら、麻縄に吊るされた唐辛子や大蒜の下を潜り、笑いあいながら陽だまりから陰へ、市場から路地へ、裏道から人だかりへ、陰から陽だまりへと走り抜ける。 「ちょ、ちょっと待ってくださいローザネラ。流石に私も、ちょっと、疲れました」 黄色い土塗りの建物の陰に隠れたところで、聖典を抱える少女は喘ぐような声で白い手を引いた。振り向いた黒い髪の少女は、異教徒の頭巾を外して「あら、貴女らしくないわね」と笑う。紙袋の中から緑色の果物を取り出して、慣れた風に食べ始める様は、つい先日まで箱入り娘だったとは思えない。キムリを齧り、壁に持たれかかる彼女の横で、白い髪の少女は、膝に手をつき息を切らす。人気が完全に無くなった裏路地の端から、辺りを窺っていたローザネラは「ここまでくれば、邪魔者も入らないわ」と得意気に口角を上げた。この言葉を聞いたのは、新しい旅に出てからもう何度目だろうか? 変わらない言葉を彼女の口から聞ける、そんな当たり前のようで当たり前ではない午後に、ラーレは困った風に微笑む。日陰から日向へと歩み寄り、白い手を改めて握ると、褐色の少女は耳元で祈りを歌った。 「ねえ、なんだか喉が渇きましたね」 「そう? なら、こうしましょうか」  手荷物を足元に置けば黒髪の少女はラーレを抱きしめて、砂塵の靡く陽だまりの中で、唇を深く重ねた。甘酸っぱい果実の味と、ローザネラの味がする。長いくちづけを終えれば、黒髪の少女は頭巾を被りなおし、より人気の無い場所に向かいましょうと、言葉も無い微笑みで誘った。白い髪が、絹のような黒い髪に交わる。額と額を合わせて、こくりと頷く読み手の少女もまた、ただ微笑みを返して。  果てしない街道に繋がる砂漠の街角に、繋がれたままに駆け抜ける二人の影は色濃く描かれ続けた。白昼に融ける秘め事の中で拭きぬけた風に、どことなく、シベリアの香りを感じる。 (終)